「ひと夏の長さより・・・」という曲が好きだ。イントロの切なげなピアノ演奏から歌詞世界にグッと引き込まれ、脳裏によぎるのは誰しも一度は経験した夏の情景。花火、かき氷、浴衣、スイカ。君に恋した、あの夏。この曲には、聴く人全ての甘酸っぱくも切ない青春の記憶が詰まっている。

昔は夏より冬の方が好きだった。夏の暑さが本当に苦手で。そして冬の「雪が降る」という一点でその他の季節と圧倒的に差別化を図っている感じが好きだった。しかし自分も年を取ったものだ。最近はだんだんと冬の寒さが体に堪えるようになってきた。凍てつく空気が細胞の一つ一つに染み渡るようになってきた。一方夏は夏で、はたして地球温暖化の影響か、暑さが留まるところを知らず年々過酷になっていく。今年はといえば既に30度超えを連発、北海道でまさかの5月の観測史上最高気温を更新。なんて上々の滑り出しだ。絶対最高の令和最初の夏にしような。

一昨々年の夏は、まだ学生だった。学生最後の夏だった。そんな夏を俺は、民間人としても、ケヤカスとしても、それなりに全うすることができていたような気がする。最後の夏休みの思い出を作りつつも、勢い良く坂を駆け上がり日に日に輝きを増していく彼女たちのことを、緩やかな下降線を辿りやがて死にゆくだけの尻すぼみな自身の未来を照らす光に見立て、応援していたような気がする。もうすぐ人生最後の長期休暇が終わる、程々な充実感とそこそこの寂寥感を晩夏の夕陽に見たのを今でも薄っすら記憶している。

一昨年の夏は、新卒だった。20余年ぬるま湯に浸かりのうのうと生きてきたツケが回ってきたのだろう、見事社会人生活へのソフトランディングに失敗した俺は毎日エゲツないストレスを溜め込みリアルガチで鬱病3歩手前の状態になりながらもどうにか社会人生活とケヤカスライフの両立に努めていた。通勤の行き帰りに聴く欅坂46の楽曲だけが、帰宅後に酒を飲み独りごちて観る欅坂46の番組だけが、俺の崩壊寸前の精神をギリギリのところで支えていた。あのときもし俺にこの趣味がなかったらと思うと、今でもゾッとする。アイドルがそこにいるただそれだけで本当の意味で心が救われることがあるということを、彼女たちが掛け替えのない青春を捧げて従事しているのはそんな尊い職業であるということを、実感した瞬間でもあった。

去年の夏は、クソ熱い夏だった。クソ熱い夏の瘴気にあてられ、当たり前のように欅共和国2018は全通した。3days中日のライブ中盤、花道最前でメンバーにバズーカ砲を顔面に向けられたとき、「あー俺クソ熱い夏とかよく知らねーけど多分こういうことを云うんだろうなー」って思った。その刹那、バズーカ砲が発射された。太陽に焦がされ火照る肌に降りかかる大量の泡がヒンヤリとして気持ち良かった。この時間が永遠に続けば良いと思った。しかしその後、推しメンはグループを卒業した。ピンチケ時代から細々とアイドルオタクをしてきて初めての経験だった。アイドルの旬は短くて儚い、やはりこの時間は永遠には続かなかった。メンタリティの根っこの部分がアイドルオタクなので、推しメンが卒業したらそのうち次の推しメンができるんだろうと、かねてから俺は自分自身のサガに対してある種の諦念のようなものを抱いて生きてきた。だが、できなかった。どうやら俺に甲斐性はないけれども、良くも悪くも節操だけはあるらしい。

今年の夏に、もう推しメンはいない。勿論死んだわけでも芸能界を引退したわけでもないし幸運にも彼女は今のところはファンミーティングや接触イベントを定期的に開催する動きを見せていて正確に言えば「いない」なんてことはないが、そういう話ではない。はたして推しメンはアイドルを辞めても「推しメン」で在り続けるのだろうか、その答えはアイドルオタク各人の推しメン観、ひいてはアイドル観に委ねられてくるものなのかもしれない。「推しメン」とは実存的存在なのか、概念的存在なのか、そういう話だ。なんてことはない、アイドルオタクがインターネットで話すことはいつだって観念的で抽象的で曖昧模糊としていると相場が決まっている。そんな答えの出ることのない問題に思索を巡らせながら、次第に埋まりゆく夏のスケジュールを見、ここ数年とはいささか勝手の違う季節の到来に思いを寄せる。

クソ熱い夏の魔物は、今年私に何をもたらすのだろうか。

夏はもう、すぐそこまで来ている。